葉隠/五輪書/インターネットの品格


 「国家の品格」という新書が、最近(色んな意味で)話題になっているらしい。個人的には、タイトルが何となく嫌(読んでない)だが、「品格」という言葉自体は、「インターネットの在り様(≒倫理)」に関係して、個人的に気になる言葉。


 「国家〜」でも言及されているかもしれないけど、武士道論として資料的価値が高いのは、新渡戸稲造の「武士道」よりは、山本常朝の「葉隠ハガクレ)」だと思う。


 新渡戸稲造は、近代人として/クリスチャンとして/対外的な広報担当(日本の自己弁護人)として、様々なバイアスを抱えていたであろう人なので、彼の著作を純粋な武士道論として読むことは出来ないと思う。
 一方、「葉隠」は、武士の時代に、武士が武士に対して残した語録なので、一次情報としての信憑性が高い。


 山本常朝(17世紀中〜18世紀初)は、佐賀の外様大名鍋島家の側近で、歴史に名を残した人物ではない。常朝が出仕した3代目鍋島光茂公(〜1700)は、幕府3代目徳川家光と同じく、関が原や島原の戦乱を過ぎた太平の世の、生まれながらにしての文治主義・徳治主義的君主。
 全部読んでないけど、

武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。

我人(人間)、生くる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし。
若し圖(目的)にはづれて生きたらば、腰抜けなり。
この境(考え方)危ふきなり。圖にはづれて死にたらば、犬死気違なり。
(だが)恥にはならず。これが武道に丈夫なり。
毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身なりて居る時は、武道を自由に得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり。

 ということで、戦場(評価しやすい軍功)ではなく畳(評価されない形式化された職場)の上で、如何にして主君への忠義において自身の存在価値を見出すか、その苦肉の美学(>哲学)だと感じる。(理屈じゃないから、美しくするしか逃げ場が無いという意味で)
 生きるよりは目的を遂げることだが、目的を遂げることより、恥を顧みるべきだという立場のようだ。


 一方、宮本武蔵の「五輪書」を少し読んでみた。
 末期癌の病床で書き起されたせいか、基本的な心と体の構えだけを述べ、「よくよく吟味すべし」で終わっており、「言葉ではうまく伝えきれないから場数を踏んで自分で思い知れ」というスタンスになっている。
 ただ、全体を通して強く伝わってくるのは、「生き残ること」「生き残るために斬ること」「斬るための兵法」「常の身としての兵法(常に戦闘態勢)」「空の身としての兵法(究極の境地)」という心の構え。
 「忠義」に関する記述は無かったように思う。


葉隠」の後書きの延長だが、
・下克上の武士道が、「常なる死地に向き合い、身体的な生を掴み取る兵法」(実践あるのみ。極めれば美も立ち現れる。)
・太平の世の武士道が、「無駄に生かされた中で、精神的な死から武士を見出す道」(無意味な実践に見出す美。)
とでもいえると思う。
いずれも、政情の違いによって生と死が逆転しているが、発想は同じなんだと思う。
更に、常朝には、忠義へ辿りつく仕掛けとして「恥」の観念が追加されているように思う。


 現実の江戸期の武士の大半が、「たそがれ清兵衛」のように、がんじがらめの分際(身分や家格)で世間体の取り繕いに忙しく、僅かな禄高での生活工面に日々追われていたとしても、常朝のような武士道は、理想モデル(建前)として相応の規範力があったと思う。


 もし「国家の品格」の延長で、武士道を考えるならば、「無意味に生きている(無駄に生きているような罪悪感も無いが、生の渇望や実感が有る訳でも無い)現代の日本人は、死と恥を出発点に、果たして美学や倫理と云ったものが見出せるのか?」という問題に変換しなければならないと思う。


 今の日本は、死(体)が隠蔽されているから、手前の「老い」に焦点が集まっている。美容とか健康とかロハスは、如何にして「老い」という「生まれた時から徐々に増えていく死」を、隠蔽し、問題先送りにするための手段だと思う。
 一方、「恥」と云うのは、武士的な「末代までの恥」と、町人的な「旅の恥はかき捨て」が、人口に膾炙している。両者は矛盾するものではなく、状況に応じて都合の良い方を使うという感性が、いつの間にか残っているように感じる。


 インターネット、とりわけブログに限って、「死(老い)」と「恥」に対する日本的感性を当てはめてみると、ブログというのは、ネット上の墓標(EPITAPH)みたいなもんで、インターネットがある限り永遠に残る「恥」であり、その一方でリアルな自分とはいつでも切り離し可能な「書き捨て」だと思う。


 2チャンネルのような「スレッド」毎に「ネタ」を競い合うのは「恥の書き捨て」の極地で、完全にリアルな自分からは切り離されているからこそ、「祭り(カーニバル)」または「フレーミング(誹謗中傷)」と言った、局地的・形式的熱狂が起きる。


 一方ブログというのは、最初は「書き捨て」のつもりではじめても、書けば書くほど、「墓標」に近づく。個人情報を開示せずとも、限りなくリアルな自分の思考プロセスそのものに近づいていってしまう。
 Web2.0と情報公開が進展する現在は、「成果物(完成品)」では無く、「プロセス(永遠に中途半端な状態)」の公開と共有だと思う。過去のプロセス(記事)が今の自分にとって恥ずかしい内容だからと云って、切り離す(削除する)のは、ちょっと「もったいない」気もするし、何となく「卑怯」とか「恥」を感じてしまう。
 それを一生「書き捨て」としてディタッチメントし続けるか、「恥」として自身にフィードバックするかは、書き手の自由だと思う。もしくは、(古)武道家甲野善紀氏の研究と著作から飛躍すれば、日本人はそうしたアンビバレントを「矛盾のまま矛盾無く」扱う身体感覚が有り得るのかもしれない。


 ジャーナリズムを基点とする欧米ではありえない事だけど、(自分含め)パーソナルメディアとしてブログを使う一部の日本人にとっては、この先20年〜30年書き続けていったら、だんだん「死(老い)」と「恥」との関連でブログを考えたりするのかもしれない。


 それは、鈴木謙介氏の「カーニバル化する社会」で述べられる、テクノロジーに担保された「(ブログ)データベースとの往復運動」という自己目的化された再帰処理の中で、「ずっと自分を見張っていたい」という自己監視欲求と共に立ち上がる、そこはかとない倫理観もしくは民意のように思う。